めくりの国

 私だけの部屋に、猫の寝息が響いている。この猫の寝息は荒い。大きな音で呼吸する。私は思い出す。1年前、父が死ぬときの人工呼吸器の音を。あれからずっと、父は死んでいる。
 父が死んで、私は離婚することにした。夫がなかなか承諾してくれないので、署名捺印した離婚届を置いて、猫を連れて家を出た。私が借りた築35年の部屋で、私は猫と住んでいる。私の部屋にいる猫は、日によって色味が変わる。ふわふわした茶色と白の猫の日。しんなりしたミルクティー色の猫の日。私の猫はとてもかわいい。猫の腹に顔を沈めて、ゆっくりと息を吸う。吐く。猫の腹の動きに、呼吸を合わせる。
 部屋にいる私は暇だ。インターネットも見る気がしない。だから英語の勉強をしている。文法書の、完了形のところで、いつも行き詰まる。完了形をいつどうやって使えばいいのかどうしてもわからない。「My father has been dead for a year. 」とでも言えばいいのか。ページをめくり、そして戻り、めくり、何度も読む。わからない。
 私の部屋ではたまに、他人が見える。男だ。彼は半透明。というか薄い。音もない。見えるだけ。なにかの膜の向こうにいるみたい。いないのに見える。突然視界に入ってくる。ゲームをしているときもあれば、身支度を整えドアの外へ出ていくときもある。彼はこの部屋の外ではどうしているのだろうか。普通に生きているのだろうか。わからない。
 部屋で他人が見えるというのはひどく迷惑だ。私ばかり彼におびやかされているようなのも不満だ。逆に彼をおどかしたい。いろいろ試した末、私はとうとう「膜めくり」という技を編み出した。部屋のそこここに、世界をぺらりとめくるとっかかりがある。そこをつまんで膜をめくるのだ。ばあっ!とめくると、急に私が現れるらしく、彼は驚き、私は満足する。恐怖で動けない彼に触れたことさえある。怯えて声も出せない彼。事故物件情報サイトを何度も確認している彼。かわいそうに。
 めくりの端っこは、ハエトリグモの左の2本目の足であることもあるし、猫の毛と私の髪の毛が混ざった埃のうちの毛の一本であることもある。人差し指と親指で、ついと引っ張ると、膜が、めくれる。男をおどかすためにめくり始めたが、めくりには思わぬ効用があった。めくれた先の世界は、日常に比べて非常に芳醇なのだ。ある人のことを強く思うだけで、その人に会える。父に会える。友人に会える。昔飼っていたウサギにも会える。もう触れられなくなった存在とだけ、会うことができる。めくりの中で、私は仲たがいした友達と、父と、話す。彼らも私も、決定的な断絶を生んだあの台詞を言わなかったり、言っても許したりする。ウサギのなめらかな毛皮を撫でることもできる。
 めくるめく夢のようなめくりの世界は、でも、長くは続かない。しばらくするとするすると膜が下り、そうすると私は私だけの部屋で一人座っていて、心が竦む。まためくりたくなる。めくりは中毒だ。
 しかし、日が経つにつれて、だんだんめくりの端っこが見つけづらくなってきた。一日に一めくりもできない日が増えた。焦りはじめた、そんなある日、封筒が届く。知った筆跡。夫からだ。宛名の文字の質感から、それが待ちつづけていたものだと気づく。離婚!
 猫を撫でながら手紙を取り出して文字を読む。案の定、離婚届の空欄を埋めたと書いてあった。遅くなってごめんなさい。役所へ行って、提出しました。そして、猫が死にました。猫は、老衰のため、数日かけてゆっくりと息を引き取りました。安らかな死に顔でした。形見にこれを。と、封筒に入っていたのは、私の猫の髭だった。
 じゃあ、この猫は?私の膝の上にいるこの私の猫は?
 猫の喉元を撫でる。あたたかく、ぐねぐねしている。はずの、質感が、急にさめていく。ああ、向こうへ行ってしまう。だめだ。やめて。行かないで。猫が鳴く。声は聞こえない。猫が私の膝から降りて、半透明の男にすり寄る。男は目を細めて猫を撫でる。彼が猫を撫でる撫で方に見覚えがある。夫だ。昔の夫。私が好きだったころの、元夫。猫は気持ちよさそうに喉を鳴らす。だけど音は聞こえない。猫はもう膜の向こう側にいる。私の声も手も、もう届かない。
 それから何日も何日も、めくりの端っこを探した。部屋中を探し続けた。でも、なかった。だから、私は部屋を出た。部屋の外に出て、はじめてこの国がどうなっているのかに気づいた。残念ながら、この国にはもう、めくれる場所はなくなっていた。
 気持ち急いで、誰もいない実家に向かう。静まり返った大きな家の大きな応接間に、布製の小さなスーツケースが縦横4列計16個並んでいる。すべてのスーツケースにそれぞれ誰かの遺品が詰まっている。薬や下着やパンフレット。旅からの帰り道、だらしなくつめこまれてそのまま残された遺品だ。私は過たず父のスーツケースを選び、土地と縁を切り、猫の髭とともに飛行機に乗る。さよなら、めくることができなくなった国。着陸後すぐ、難民申請に向かう。「お気の毒に、あなたの国で、戦争が、始まりましたね」「It has been almost in  the war all the time.」
 こういうときが来るとわかっていたから、私はずっと英語を、学んでいたのだな。久しぶりに見つけためくりの端っこは、しょっぱいフライドベーコンの焦げ目だった。さっそくつまんでめくる。予想通り、膜の向こうには私の猫がいた。存分に撫でた。顔をうずめた。久しぶりの猫のにおいに不安はごっそり溶け去った。猫はころんところがった。