私は風呂に入れない

 私は鬱病だ。心療内科に通院し、何とか日常生活をこなしているつもりだが、傍から見てどうなのかはわからない(わからないのは鬱病のせいではない。客観性は鬱病になる以前からもちあわせていない)。

 鬱病歴が20年にもなると、鬱病エリートになる。向精神薬も安定剤も睡眠薬もすべて酒で飲み干し、眠り、地獄の朝を迎え、地獄から地獄へからだを引きずりまわし、会社へ行き、ちょっと壊れた人のふりをして仕事をし、帰宅し、酒を飲み、残った酒で薬を飲み、眠る。

 鬱病には波があり、病めるときと少し病めるときとだいぶ病めるときがある。とてつもなく病めるときもある。とてつもなく病めるときは休職する。だいぶ病めるときくらいまでは、割と普通に過ごせるが、普通というのは人と会ったりライブに行ったりできる(もちろんイベントの前には安定剤多めに飲む)ということだが、でも、そういうときまあまあ困るのが、入浴できないことだ。もちろん私とて他人とリアルで至近距離で会うときに清潔感が大切なのは知っているし、そのためには入浴は欠かせないものと信じている。だが、しかし、鬱がひどくなると、風呂へのハードルが異常に上がるのだ。とりあえずまあ、「鬱病 風呂 入れない」で検索してほしい。話はそこからだ。そうすれば、風呂に入るという行為が、エベレストとかそういう凡百の高山ではかなわないほどに難易度が高いことをわかってもらえると信じてる。

 まず、ベースキャンプにたどり着くだけで偉い。風呂に入る気になっただけで偉い。そこから、登頂を目指す。凍える。滑落する。空気が薄い。もうだめだ。満身創痍でシャワーの水を出す。息を止めて目をつぶり、できるだけ素早く何もかもを洗う。5分。たった5分。決死の5分。乗り越えて勝利。今日は祝杯だ、と、多めの睡眠薬を飲む。こんなの3日に一度が限界だ。

 そんな鬱病の私にはもちろん理解しかない彼くんがいる。理解しかない彼くんは、牛のように優しい目をしている。黒目がちな瞳で、今ふとんから出られず涙を流している私を見つめている。

「お風呂入りたくないよお」

「うん。つらいね」

「でも明日月曜日だよお。ミーティングと会議があるんだよお」

「そっか。大変だね」

「大変だねって、なんでそんな他人事なの!?あ、他人だからか、もう私馬鹿だね、薬ばっかり飲んで馬鹿になっちゃったんだね、もう駄目だ、ねえ、私のこと臭いって思ってるでしょう」

「思ってないよ、そんなこと。ただ、ねえ、入浴ってなんだろうね」

「は????????」

「入浴って、つまり水に入ることだよね、入水だよね、僕と一緒に入水しようよ」

「なに入水って太宰とか好きだっけあんた」

「好きだよ。」

 理解しかない彼くんの頭から、角が生えている。牛の角。あ、この人、牛だったのか。ていうか、牛頭。牛頭だなこいつ。実は地獄の獄卒だった牛頭a.k.a理解しかない彼くんに追い立てられ、私は三途の川を渡る船に引きずり込まれた。

 

 すべりだした船の舳先にはすべすべした何か飾りがついていて、よく見るとそれはすべり台になっていた。すべり台の降り口が、水を分けて、広い川を横切ってゆく。

 牛頭は「地獄って、平日朝のことだと思ってる?それとも日曜夜のことだと思ってる?」と、全く鬱病のことがわかっていない質問をしてくる。

「毎日だよ!地獄は毎日!毎時間!毎分!毎秒!!!!!」

「ならさ、逃げなよ、水の中」

 攻撃性をほの見せながら、牛頭が対岸を指さし、そして、川を指さす。

「どっち?どっちがいい?」

 川から立ち上る荒川放水路のような臭気と、対岸にゆらぐガントリークレーンのような灯りを見比べて、私は船から落ちようとしたのに「おっと川選ぶならすべり台使ってね」はいはい、ところどころ錆び止めの下地が見える公園遊具のすべり台を模したすべすべのすべり台の段をすべって転びそうになりながら登って、そこから見あげる空はまるでエベレスト山頂のように青黒い。牛頭がイラついて私をせかす。おら、という声、どっ、という衝撃。背中に食い込む爪の痛みに息を止め目をつぶったまま意外と長くも短いすべり台をすべり落ちると、そこは日曜日だった。正確には、日曜日の23時56分。

 やった、ほぼ日曜日に風呂入れた。ハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタ。今日は入浴ができて、明日は10時半までに会社行って、ミーティングして、企画書2本出して会議して、ってしなきゃいけないけどそれを体臭を気にせずできる。それって天国みたいじゃない?

 私はキリン氷結無糖シークヮーサーアルコール7%の残り3口で、睡眠薬を飲み干した。今日は入浴以外してないけど死んでない。よくできました。来週もがんばろね。

 

 

*古賀コン3参加作品です。2023年12月10日16時から17時の間で書きました。

 

*テーマソング