花の子ども

 またやってしまった。

 枕元には胃液と、消化し損ねた繊維。

 マイスリーという睡眠薬を出されてから、私は記憶障害を起こす。薬を飲んだあと、おなかすいてきちゃったな、と思ったところまでは覚えている。そして。そして?

 私は花を食べているらしい。


 きっかけは水仙だった。春を告げる毒の植物が、正月に売られていて、きれいだったから、買った。鉢植えだ。一人暮らしの窓辺に、白い可憐な花弁が光る。そして、そして。


 翌朝、花はなかった。

 私が食べたから。


 小さい町の新任の高校教師として、約半年頑張ったつもりだった。けれども、鏡に写る私は睡眠不足と過労で、明らかに不健康だから、心療内科へ行った。そこでもらったのが睡眠薬だ。

 不眠はすぐ解消した。けれど、薬を飲んでからの奇行と記憶障害には戸惑った。昔の友達に突然電話してしまったり、スナック菓子をドカ食いしてしまったり。たくさん失敗した末、一番人に迷惑をかけない奇行にたどりついた。花を食べること。睡眠薬によって起こる異様な人恋しさと食欲を収める、もっとも平和的な方法。花を食べると落ち着くので、私は毎日花屋に寄った。


 そんな感じで、冬はまだコントロールできた。買わないと花がなかったから。

 でも今は、道を歩けば、そこら中に花が咲いている。

    激務は続き、会社帰り、現実に耐えられなくなって、睡眠薬を酒で飲み込みながら、歩く。いつもの通勤路を歩く。

 道端には咲き誇る沈丁花。肉厚の、白と赤のツートンカラーにかぶりつく。口の中が、トイレの芳香剤みたい。でも、食いではある。しゃりしゃりと、セルロースをかみ砕く。

 ラナンキュラス。これも、花弁が多くて、大きくて、食いでがある。鮮やかな赤をまるごと飲み込む。ぱくり。農薬みたいな匂い、これはこれでよし。

 道端に咲くハコベ、そしてオオイヌノフグリ。きらきらした星を根っこごと引き抜いて、口に詰め込む。土がじゃりじゃりする、けれど輝く星に、明日への粒を感じる。

 咲き遅れた山茶花。まっピンク。蜜の味しかしない一口目から、青い香りがする端の花弁までの、グラデーションがたまらない。

 こぶしとモクレン。大樹のしたについた花を背伸びして噛みつく。ぱっと見似ているこの二つ、食べると全然違う。まるで、シジミと牡蠣みたい。

 チューリップ。大事にされて花壇にいるから、ちょっと躊躇する。でも食欲には勝てない。茎の先を無慈悲に摘んで、ゆっくり味わう。若鶏みたい。とてもジューシー。

 アネモネ、これは、食ってみろ、飛ぶぞ。口の周りが黒くなってる気配を感じるけど、そのまま、ぬぐいもせず、歩き続ける。

 ハナニラ。可憐な花とうっすら香るニラ臭のギャップが良い。ニラやニンニクを食べたあと、決してキスしてくれなかった元カレを思い出して、むかついて、つい食べ過ぎてしまう。

 毎晩、こんな感じのフルコースを食べていたら、春本番がやってきた。ソメイヨシノの季節だ。全部の風が、食べ物。口を開けると、散る花弁が、風とともに飛び込んでくる。下を向けば、ヒヨドリメジロが落とした活きのいい花。味は薄いが、上品とも言える。いくらでも吸い込める。これはアムリタだ。不死の酒。空気の流れのかたちをした、薄桃色の流れが、あちらへこちらへ、命を吹き込んでいて、全部、私は、身の肉にするために、口に入れる。地べたに跪き、積もった花弁も集めて貪る。

 

 民家に咲く花を思うだけからだに流しいれる夜が明け、そのたび私は後悔する。花盗人より、花食人のほうがよほど罪が大きいのではなかろうか。

 薬と、酒と、花しか口にしていないのに、しかも毒花も食べているのに、私は健康だ。透き通った桜貝のような爪。モクレンのように白い皮膚。唇にはラナンキュラスの赤がこぼれる。ある朝、花が私からはみ出す。

 ふわあ、ちょっと油断しちゃった、死ぬわああ。

 校舎の屋上に出て、からだのおもうがままにする。からだが裂けて、咲く。コアから吹き出す粉が、春の嵐にのって運ばれていく。私は風媒花としての一生を終える。


 校舎の風下に住む近隣住人たちが、数か月後、健康障害を訴える。鼻の奥、副鼻腔に何かいるみたい。疲れると目の下が張る。

 まもなく、鼻腔から、突然、鼻水より生命の匂いがする液が吹き出す。羊水。降りてくる、とてつもなくおおきな塊。もう痛すぎて何も覚えていないけれど、ゆっくりと旋回する小玉スイカみたいなやつ。鼻からスイカ。町唯一の産院の助産師さんが、がんばって、我慢して、もう少しですよ、といっている、はい、いきんで、鼻からもう頭出てますよ、よーし鼻毛切りましょうか、おぎゃあ、ぎぇぇぇぇぇぇ、あらマンドラゴラみたい、とりあえず鉢に入れときましょうね。カンガルーケアはいい?はい。お疲れでしょうし点滴しましょうか。え?これから仕事行く?やめて、産後のケアはその後の一生にかかわるからせめて今晩は泊まっていっていください、粉ミルクの作り方もあとで講習やりますんで。ね?かわいいでしょあなたの鼻から生まれた子ども。

 こんな患者が日に数人。修羅場は3週間程度続いた。


 大量に生まれた花の鼻の子どもたちは、鉢から庭に移植された。鼻からスイカ並みの苦痛を味わった親たちから意外と愛情をかけられ、彼らはすくすく伸びている。

 季節ごとの花を食べ、夏にはカンナ色の花火を打ち上げてくれる、いい花になった。

 もうすぐ春。花の子どもたちにとって初めての春。風から伝わるなつかしさだけを頼りに、彼らはその身からソメイヨシノを散らせ、そして、死ぬだろう。

 

(古賀コン4参加作品です。お題は「記憶にございません」、2024年3月3日23時〜24時の間に記憶障害を起こす睡眠薬を飲んでから書きました。)