東京さくらトラァム

 今日は私が墓になった話をします。
 墓は箱である。私も箱である。墓と箱で踏める(踏めない)。

 石の墓は、つるりと、冷たくなめらか。とぎすまされた角がある。切りたての豆腐のような?固くねっとりとした葛餅のような?鋭い板チョコのような?三辺の待ち合わせ場所、頂点。を持つ。箱。
 彼らの艶かしく麗しい角を、むかしの私は、舐めまわしたいような気持ちで、墓たちを、墓場を、霊園を、愛でながら走。った。勤勉に走。った。あのころ、
 私も、もちろん、箱だった。箱の中はまどろみの国だった。主に、年老いた人間たちが、私という、箱に入った。かたんことん。彼らは、とげぬき地蔵。健康を叶える。と言われる。像。を訪い、地蔵を洗い、なめらかにし、墓という箱から遠ざかるために、祈った。そしてまた、私=箱に乗った。
 私は、都電。都電荒川線。だった。直方体の、動く、金属の、箱、だった。早稲田から三ノ輪橋を行き来する、かたんことん、ちんちん、と、走る、箱だった。ビルという箱、家という箱、の間をすり抜け、巣鴨地蔵通り商店街、老人の原宿、を、通る、地元の愛され箱(過去)。
 車体番号は8503。クリーム地に緑のライン。ひときわかわいらしい箱ですしでした。これは自惚れではない。人間もそう言ってた。

 ところが、ある日のことです。
 「東京さくらトラァム」という、新しい名前が、降ってきたのです。
『2017年3月、都交通局は利用者増と沿線活性化のため、荒川線の愛称を決めることとした。外国人観光客にも分かりやすいように「東京○○トラァム」という形式として、○○に入る言葉の候補8つを提示し、一般からの投票で絞り込んだ。その結果、同年4月28日に「東京さくらトラァム」に決定したと発表された。』(wikipedia 、「都電荒川線」の項、過去に存在した。より。)
 「東京」「さくら」「トラァム」。「ァ」は、発音記号aeの、「エの口をしてアと言う」、「ァ」。
 私は震えた。都電荒川線でいいじゃんか。観光客はローカル感味わいに来てんだろ馬鹿が。まず東京アピールがクソださい。さくらってなんですか沿線名物はバラですが。極めつけに「トラァム」。恥ずかしすぎん?

 世界も震えた。 
 都電が、都電荒川線がァ?
 ァァァァァァァ?????
 ァァァァァァァ!!!!!
 【耐えられない】
 塗糊されていた歪み、傾き、嘘、が、とことこ、ことことと、走る私に圧縮され、たわみ、たわみ、
 破れた。

 傲慢な、弱い頸を持つ袋たちよ。
 袋を破れ、形を無くせ、不在せよ。
 ァァァァァァァ、と、どす黒い、コールのタールの色の、虚無が、炎が、都電から、噴き出し、広がった。終末が、始まった。
 虚無の炎、人だけを飲み込む。命を命としない、死を死ともしない、ただ不在とする、無の炎が、街を満たす。炎に、包まれた人間は、焼かれた。はじめに、目がやられた。次は喉。炙られた皮膚が破れ内容物が蒸発していく。燃えている間、老若男女、すべての人間は、酷く苦しんだ。ァァァァァァと唸る声が地に満ちた。そして、この炎は、突然ですが、世界中に広がりました。その速度は光。あるいはかたつむり。結局、世界中の人という人、という糞袋から中身の糞がなくなり、焦げた皮膚は空になり、やがてへろり、と風に吹かれて飛んでいった。

 違うよ。私は、恨んでいなかった。人類を滅ぼすほどには。
 災厄の原因は私ではない、この極東の小さな老いた箱。が、人間を滅ぼせるわけないじゃないですか。ただ、世界の矛盾が、あの「ァ」、「トラァム」の「ァ」に、凝縮されてしまった、それが世界の堪忍袋の緒の切れ目になった、それだけのこと。
 人はみな見ていたでしょう、行われない正義を。為される非道を。戦争を。人間を非人間的に踏み躙り燃やし尽くす人間が作る業火たち。それを誰も、止められなかった。世界のあちこちのできごとを、知るどころか眼前につきつけられていたのに、止めなかった。人間たちは悪すぎた。世界の息は浅くなった。だが世界は耐えた。ぎりぎりまで。その表面張力を破ったのが、「ァ」。小さな悪。
 ァァ、だからどうか、泣かないでほしい。このカタストロフは、ディザスターは、あなたがた人間の不正義、世界の害悪としての存在、そのものの、帰結だわかるだろう泣くな。もう世界は、人間が、全然、無理だったから。

 ァァァァァァァ。
 ねっとりしたさわやかな風が吹き渡る。猫がにゃあと鳴き、ハトは首を振る。人間のいない世界の穏やかさ。世界が深呼吸する。リラクシング。
 箱、全ての箱は、大きな箱たちは、ビル、家、と呼ばれた箱たちは今は空になり、人の不在を祝う。箱のまま箱として墓となり、墓の墓として、人が消えた、東京都、北区、飛鳥山の坂道に、草が生い茂る箱として。墓として。いる。私は。私は墓。こうして墓になった私。あなたの、あなたがたの墓。もう存在しないあなたがたを弔わない。走らない。
 ァァァァァァァァァァァァァァァァァァ。

キジバトの星

cuckoo cuckoo

鳩時計が、鳴いている。
少女は教科書から顔をあげ、苛立ちを込めて時計を睨みつける。

少女の母が気まぐれに買った、無印良品の白いシンプルな鳩時計。カウンターキッチンの上の壁に掛けられた。毎時0分に、その時刻の数だけ、鳴く。12時だから、カックー、カックー、と12回。

普段から、単純に騒々しい。今みたいなテスト前夜、焦りと諦めと後悔と眠気をぐっと噛み締めて、リビングテーブルで勉強しているときにはなおさらのこと勘に触る。

「鳩時計なのにカックーと鳴くのはなぜ? それではまるでカッコウ時計。商品名に偽りあり!」
少女は人差し指を立て強く意義を唱える。

と、筐体に引っ込んだばかりのはりぼて鳥がひょいと出てきた。
デーデポッポポーなら満足かい、お嬢さん。
あたしゃ本当はキジバトなんだよ、カッコウの真似をさせられるのにはうんざりしてる。もうこの際これからは正時のたびに変拍子鳴き声を刻んでやろうか。
本性を現したキジバトは、喉を鳴らして、3-3-2拍子の座りが悪いリズムを奏で始めた。
ほーへほっほほー
リビングに飾られた花がゆるやかに震える。
はーへほっほほー
生活物に溢れた部屋の隅々まで、まったりした空気が行き渡る。
ふーふほっほほー
部屋の薄暗さが増した気がして

「やめてもらえないかな、眠くなるのよその鳴き声」
少女が暗い声で呟くと、キジバトはほうらね、みんなそう言うのよ、と悲しそうに口をつぐんだ。

しばらく気まずい沈黙。自分の方が大人なんだからなんとかしなきゃ。キジバトは口を開く。

ねえ、なんの勉強しているの?
「理科。星の一生」
主系列星ね。私こう見えて地学得意なのよ。
「地学が得意なキジバト
そう。地学が得意なキジバトです。
「熱い星が青くて、冷たい星が赤いのが、どうにも感覚にそぐわなくて」
ろうそくの炎と同じね。熱い方が光の波長が短いのよね。星の色の違いは大事よ。テストに出るわ。
「見たことある?」
何を?
「星。」
ないわ。鳥目だもの。でも。
「でも?」
爆発したら見えるかもしれない。
「爆発?」
そう、超新星爆発
「どの星が?」
ベテルギウス。オリオン座の星、赤いから平家星とも呼ばれる、ちなみにベテルギウスは脇の下っていう意味なんだけど、あの星は随分老いた星。赤色巨星ね。太陽よりずっと大きいから、最後には爆発するって言われてる。
そしたらもう、すんごいんだから。
満月の、およそ100倍とも言われてるのよ。
どんな星より明るく輝く。
まるで太陽が2つになったような。
うっとりと語るハトの目は、夢に見たまだ見ぬ赤い光を宿している

超新星爆発。これはテストに出るからね。ちゃんと復習するんだよ
「うー」
はい、でしょ?
「はい」

 

そのときにわかに外が明るくなった。
「夜明け?うそ、早くない?」

慌ててベランダに出ると、
空には巨大な星が一つだけ。
眩い光を放ち、東から昇り来るその姿は、ベテルギウス
明るすぎて眩しすぎて、他の星が全く見えない。
目が痛い。
家々の瓦屋根が輝き、
人々は驚きぐらぐらと家から飛び出し、
その真上で光る。星一つ。
超新星爆発だ。
キジバトが耳の奥で囁く、復習だよ。
振り向くと、真っ赤な光を浴びた時計から赤茶けた鳥が飛び出し、ぎらぎらと喜びの歌を歌い続けた。

cuckoo  cuckoo

夜の煮凝り

 見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。そのページだけ、光に溢れているのだ。

 

 最初にその日記を読んだのは、冬の始まりの、少し冷える日だった。

 目を覚まし、太陽が昇ったことを確認して身支度をする。マフラーを巻き震えながら玄関のドアを開けると、合皮っぽい表紙のぶ厚い本が郵便ポストに入っていた。趣味が悪い赤茶色の直方体を拾い上げる。

『MY DIARY』

 安っぽい金色の箔で記された、筆記体のアルファベット。「私の日記」だ。しかしその「私」は私ではない。こんなもの、買った記憶も貰った記憶もない。つまり「この私」の日記、ではない。新品かというとそうではなく、全体的に手垢にまみれた様子や、端が頼りなげにほころんだスピンを見るに、どうやら記入済みのようだ。

 日記。これは、どうかんがえても嫌な物体。プライベートの最たるものだ。念がこもっていそうで禍々しい。もちろん何が書いてあるか気にはなるが、悪い予感しかない。特にこのご時世だ。開いてしまったらおしまいのような気がする。

 困ったときは先送り。日記は、迷った末、ビニール袋に包んで通勤かばんの底に入れた。

 

 その日の仕事もそれなりにきつかった。私たちは、昼のうちに、正しくは日が沈む前に、全ての仕事を終わらせ、帰宅しなくてはならない。この季節なら、15時までが限度だろう。商品の問い合わせに答え、在庫を確認し、発注書を回したところで一息つくと、隣の席の佐藤さんに声を掛けた。

「さっき佐藤さんが受けた電話、面倒そうでしたね。あそこの会社の担当、替わったんでしたっけ」

「そうなのよお、ほんとやなやつになっちゃって。前のタダミさんはいい人だったんだけど、まだ出てこられないみたいなのよねー、金縛りがひどくて。大田原さんも気をつけなねー」

「あ、はい、そういえば今朝、なんか家の前に知らない本……っていうか日記? が届いてたんですが、こういうのってどうすればいいんですかね?」

 す、と、その場の空気が一歩下がった気がした。

 佐藤さんが小さい声で言う。

「大田原さん、それ……”あれ”……じゃない?」

「え」

「え、じゃないよ」

 怒気をはらんだ声。いつもは穏やかな、向かいの席の井澤さん。

「”あれ”かもしれないのに、なんで会社来てるの? ”あれ”が伝染るって、知らないわけないよね?」

「で、でも、見つけたの、朝ですし」

「そういう問題じゃない! ”あれ”だよ? 夜になったらどうなるかわからないだろ!」

「ごめん、なさい」

「うちの母親の話したよね? 人事に話してくるから!」

 そう叫んだ井澤さんは席を立ち、しばらくして、人事総務部長を伴い戻ってきた。

「話を聞きました。念のため、ということもあるから、しばらく、自宅で待機をしていただけますか? 期限等については、”あれ”の専門機関と相談して、後日連絡します。とりあえず今日は、他人との接触を避け、速やかに帰宅してください」

 私は頷き、こわばった顔の同僚たちに挨拶もできぬまま帰宅した。

 

 いま、世界の夜は”あれ”に支配されている。

 怪異。お化け、妖怪、その他何とでも呼べるが、言葉に出すと「呼んで」しまう気がして、恐ろしくて、普段はみな”あれ”と呼んでいる。

 

 きっかけはわからない。突然、夜、外に出た人間が死ぬ事件が、激増した。人ならざるものに襲われたとしか思えない状態の死体が、毎夜量産されていった。ふらふらと海や池、山に入って帰って来ない者、何かに憑りつかれて日に日に生気を失い死に至る者も多かった。

 日没後の世界では、公園のブランコはキイキイ揺れやまず、ビルの屋上からは何度も何度も同じ人影が飛び降り、エレベーターは無人の階に止まりまくった。田んぼにはくねくねしたものが踊り、リンフォンもコトリバコも自動で開き、八尺様は夜な夜なスキップした。乗り物に乗っていれば安全かといえばそうでもなく、タクシーの客は必ず墓場で消えるし、高速道路では猛スピードでリヤカーを引っ張るババアに追い越されるし、トラック無線には悲鳴や不気味なつぶやきが必ず混ざるし、電車は必ずきさらぎ駅で止まるようになってしまった。そして、こうした現象に遭った人間は、必ず何らかの形で不幸(悪くて一族滅亡、良くて原因不明の体調不良)になった。こうなると、事実上夜の外出は不可能である。

 政府は、寺生まれのTさんを対策本部リーダーに任命し、「破ァァ!」を簡易的に繰りだすアプリなどの開発を進めたが、祓っても祓っても襲い来る怪異には歯が立たなかった。

「死にたくなければ、夜、外に出るな……」

 定例記者会見で肩を落としつぶやいたTさんを見て、寺生まれも大変だなぁ……と皆が同情した。

 

 この現象は日本のみならず、世界中で発生した。基本的に、各国の文化に沿った怪異が発生するらしく、例えばアメリカではゾンビが墓からがっつり足をつかんでくるし、排水溝からはピエロがのべつまくなしに声をかけてきた。

 不幸中の幸いといえばよいのか、室内にいる限りは怪異の影響を軽減できた。屋根のある場所ならば、夜間でも人死にはめったに起こらない。人々は、とにかく空に太陽があるうちに活動し、日没前には自宅やシェルターで過ごすようになった。

 もちろん各国の研究者は知恵を絞った。集団幻覚説、太陽フレアの影響説、生物兵器説、月の裏側に住む常夜のものたちの陰謀説、など、さまざまな仮説が生まれたが、有効な手立てはこれといって見つからないままだ。屋外活動は昼間しかできないので流通システムはほぼ崩壊。世界状況は混乱の一途をたどっている。

 それでもなんとか、私たちは生きていこうとしている。夜間外出が禁止されてから、二年。日本の出生率が上昇しはじめたというニュースは、久々の明るい話題として歓迎された。でもそういうのってなんだか笑えないな、と私は思う。

 

 それにしても井澤さん、あんなに怒鳴ることないのになあ。まあ、お母さんが怪異で酷い目に遭ったらしいから仕方ないか。とぼとぼ自宅に戻り、かばんから『MY DIARY』を取り出す。ほんと、なんなんだろ、これ。

 昼間で、屋内であることが私を大胆にさせ、思い切って本を開いてみた。

 最初のページは、夜だった。

 日付は読み取れない。一文目は「弱い風に湿度を落とした空気が運ぶキンモクセイの香りが古い街灯の色と混ざり九月の月が明るい」、だったと思う。というのも、読んだ瞬間文字が薄闇に沈みそれ以上読めなくなったのだ。かわりに、ページ全体が夜になった。虫の声が身体全体を包み、ようやく終わった夏が未練がましくまとわりつくのを振り払った秋の夜の空の色が指先からしみわたる私は咲き始めのキンモクセイの甘さを大きく吸い込む青いような赤いような上弦の月の光が均等に降り注ぐのは、夜。

 夜だ。

 次のページも夜だった。「10年ぶりの大雪の日冷たく鼻を刺す素晴らしい空気を吸いながら歩く歩く歩く」人も車も通らない静かな大通りを傘を閉じて上を見上げ口を大きく開け冷たいぼた雪を飲み込むだけでは飽き足らず積もった雪を掬いしゃりしゃりと噛みしめ街灯に照らされる雪の舞い風の舞い私も舞いたい味わいたいこのすべてをいつまでも続けばいいのに雪に塗りこめられればいいのに、この夜が。

 夜だ。

 その次のページも夜だった。「日が暮れたとはいえちっとも気温は下がらないねほら猫が溶けているオシロイバナが闇に浮く」エアコンの室外機が吐き出す熱風たちがコンクリート舗装の道にわだかまり沈み泥水みたいに流れる足に絡まる汗が噴き出すコンビニで買ったビールの缶を開けできるかぎり素早く飲み干さなければならないもう缶が汗をかいているすぐ温くなる苦い液体とこんな時間でも鳴き続けるセミ、散歩に向かないこんな夜。

 夜だ。

 次の次の次のページも夜だった。「散る日散る日散る日今日は散る日だとソメイヨシノが言う日が沈んで風が強くなった今散る今散る今散る」少し悪くなった水みたいな香りをさせる桜の密集地この公園はとても穴場特に夜のこのベンチは座ると吹雪の真ん中にいるみたいねえ桜を夜照らそうと最初に考えたのはだれだろうねこの桜のこの恐ろしさをどうしても呼び出したくなるどんな人間でもだから最初に思いついた人なんてだれでもいいんだろうね揺れる枝が花が光を吸い込みその隙間から見えるのはただ、闇ばかりの夜。

 めくってもめくっても夜だった。切通の道に生える雑草の露が光る夜、計画停電の夜一軒だけ開いている飲み屋の灯らない赤提灯を目指す夜、何もかも嫌になって人気のない駐車場に寝転んだ夜、小雨の中濡れる南天の葉が民家の灯に照らされ招く夜。

 

 夜だ。これは私の記憶の中の夜の日記だ。私一人の夜を記した日の差さない日記だ。

 各ページに一つずつ描かれた夜。書き込まれた文字列を追おうとするがそれらは呪文のように私の目に鼻に口に耳に肌に干渉し、直接夜に放り込まれる。間違いなく、これは怪異だ。これ以上読んではいけない、と理性は言う、だけどページをめくる手を止めることはできなかった。

 だって、夜が恋しい。恋しい。恋しい。

 今はもう人類から失われてしまった、自由な夜。ひとりで自由に外を歩き思うがままにかぐわしい夜気を吸い込む夜。もう楽しめないひとりの夜の外出をどこまでも味わいたい。

 

 貪るように夜を取り込みうっとりしながらスピンが挟まったページまでたどり着いて、めくると、

 「男車陰茎口淫」

 一行目、を読み終わる間もなかった、あの日のあの屈辱的なあのあいつあの男ねばつく嫌だ体がうごかない気持ち悪い怖い冷静になれ相手を刺激するなどうして悪いのあの臭いが目がぼやける死にたい助けて違うこれは私とは違う夢夢ではない私どうして

 

 フラッシュバックの牢獄に放り込まれて何時間経ったのだろう。私は嘔吐することによって、意識を取り戻した。吐くものがなくなっても、えずき続けた。あれは、私が、性暴力に遭った夜、のページ、だった。

 そうです。私が夜一人で歩けなくなったのは怪異が始まってからではありません。あの夜以来、夜が怖いのです。大好きだった夜の散歩ができなくなりました。私は怖くて悔しくて嫌で忘れたくて。助けてください。助けなくていいです。死にたいです。動けません。

 心が世界から遠くなってぼんやりしていると、スマホに着信があり、既に暗くなった部屋で画面が光る。心を失っていた私は軽率に通話ボタンをタップした。

「もしもし、大田原さんのお電話でよろしいでしょうか」

男の声だ。

「こちらは、都の怪異対策部の石田と申します。会社の方からご相談がありましたため、失礼とは存じますがリモートにてお話をお聞きしたく」

 かすれ声で応対した私の異変を感じ取ったのか、石田さんはとても親切だった。要領を得ない私の話を丁寧に聞いてくれた。私はしゃべった。日記を開いて起こったことの全てを。その内容を。最後のページにあったものを、そして私が被害者となった事件についてを。いろいろと聞かれて疲れたが、性暴力被害のときの、警察からの聞き取りよりだいぶソフトだった。

「最後にお聞きしたいのですが、なにかご自身で恨みを買うようなことなど、心当たりはおありでしょうか?」

「……えっ? あーあの、先週、会社で間違えて上司のプリンを食べてしまい悲しませました……が……?」

「あ、それなら全然大丈夫です。では、明日朝一で、その物体を引き取りに伺います。それまで、お手を触れないようにお願いします。万一のことがあるかもしれませんので」

 翌朝、本当に朝一(太陽が昇ってすぐ)に到着した石田さんに日記を渡すと、代わりに「怪異被害に遭った方へ」というパンフレットをくれた。無料カウンセリングなどもありますので、と気の毒そうに言い添え去る彼を見送ると、膝からがくりと力が抜けた。怖かったんだな、私。

 

 怪異遭遇による自宅隔離は幸い二週間ほどで解け、また日の出と日没のリズムに合わせて出社する暮らしが始まった。夜の長い冬を越え、春が過ぎ、初夏を迎えた。その年から、一年のうち一番昼間が長い6月下旬、夏至前後の数日が祝日となり、街々で昼祭りが開かれた。昼間に飲む屋台のビールはそれなりにおいしかった。怪異は相変わらず夜を支配していた。そして、夏が来た。

 取引先に出向いてそのまま家に帰る途中、炎天下、大げさなほどに陽炎が立ち、背中にも胸の谷間にも腿にも大粒の汗が伝うのを感じながら、私は踏切が開くのを待っていた。カンカンカンカンカンカンと警報機が鳴る音、交互に点滅する赤いランプ、電車の近づく気配、遮断機の向こう、線路際にピンクのタチアオイが日差しを浴びているのが見える。

 その隣に、あの日記がいた。熱で歪んだ空気の影響をもろにうけてゆらめきながら、それでも日記は、すっくと立って私を見ていた。目の前を電車が通り視界を遮る。熱い空気がかき回される。最後の車両が過ぎて、遮断機が上がる。日記は、微動だにせずそこにいた。

 

 やっぱり、来たな。

 

「逆恨みでしょうね」石田さんの静かな声を思い出す。

 怪異を利用した嫌がらせや殺人は、人々が怪異に慣れてくるにつれ増えていた。裏社会を通して呪い屋にある程度のお金を払えば、夜の者たちの力を利用して、特定の人物を攻撃してくれる。政治家や有名人の呪い被害が増え、法改正が行われ、警察が呪い屋の一斉検挙に踏み切ったのが今年の初め。私が怪異対策部に呼び出され、大手呪い屋に私をターゲットとした呪いが依頼されていたと伝えられたのが先月。

 対策部のパーテーションで区切った一角で、石田さんと女性職員があの日記の正体を説明してくれた。私が事件を示談にしなかったこと、そもそも警察に届けたことが気に入らなかった、だからあのときと同じくらいひどい目に遭わせるよう呪い屋に頼んだ、と再逮捕されたあいつは言ったそうだ。

 あの事件の犯人。飲み会からの帰り道、声をかけてきた近所の男性。正確には、アパートの大家の息子だった。庭仕事が趣味で、感じもよく、子煩悩で、ごみ捨てついでなどに雑談することも多かった。その夜彼は車に乗っていた。もう遅いから家まで送っていきますよと言われた。私はだいぶ酔っていたので、お言葉に甘えた。しかし、車は家に向かわなかった。知らない道を進んだ。人が通らない場所に車を止めて男は言った、「ずっと二人きりになりたかった」そして、そして。

 示談にしてほしい、被害届を取り下げてほしい、俺の家庭と人生を壊さないでほしい、そもそも同意はあったじゃないか。ぼろぼろになって警察へ行った私はぎりぎりの力でそれらの言葉を跳ねのけた。そうして、引っ越して、転職もして、陽気で気楽な暮らしを取り戻そうと、努力した。もちろん無理だった。あの夜が煮凝りのように腹の底にわだかまっていた。夜が怖い。人気のない道が怖い。

 だから、怪異のせいで夜間外出が制限されたとき私は、ざまあみろ、と思った。実はずっと思っている。だって私だけ夜の散歩ができないなんておかしいじゃないか、世界全員できなくなるならいい気味だ。そんな、嘘みたいに汚い心で私は怪異を歓迎している、と言ったら、ここで私の心のケアまでしてくれている怪異対策本部の人たちはどう思うだろう。

「呪いの出現は一度きりとは限りません」と石田さんは言った。呪い屋が怪異の力を制御しきれず、呪力が暴走する場合もあるらしい。対呪い用のお守りを渡され、もしまたあの日記が現れても決して近づかないよう注意を受けた。「理不尽だと思われるかもしれませんが、どうかご自身の安全を最優先してください」。理不尽どころの騒ぎではない、と思いながら私は頷いた。

 

 そして今、私は踏切を渡っている。左手でお守りを握りしめながら、目を瞑り、日記を無視して通り過ぎ―――て、やっぱ駄目だ。負けたくない。絶対負けたくない。あんな風に踏みにじられた上にまた逃げるなんてできない。やられっぱなしなんてまっぴらごめんだ。私は私を取り戻したい。戦いたい。目を開き振り返り、怒りと恐怖で震えながら日記を掴む。日記は太陽光を吸収しひどく熱い。たわんだ赤茶色の表紙の感触がまるで粘膜みたいだ、と気付いてひるんだ私の隙を突き、日記は踊るようにページを開いた。

 夜。夜。夜。

 以前見たときと、寸分たがわぬ夜が、そこにあった。私の大好きな夜。一人の夜。美しい夜。うっとりする夜。罠だ。こうやって私を夜に酔わせて幸福にしてから、最後にあの夜を見せて私を突き落とす。そんな日記の目論見がわかっているのに、既に相手の術中にはまってしまった私は、日記を読み返すのをやめることができない。

 そしてとうとうあの、スピンが挟まったページまで来てしまった。日記は得意げにぺらりとめくれた。驚きで息が詰まった。そのページだけ、光に溢れていたのだ。意味がわからない。もしかして、このページだけ夜ではないのか? いや、違う。

 このページが明るい意味がわかった私はすとん、と座り込んでいた。この光は、悪意だった。あのとき起こったことがよく見えるよう照らしだして、私をさらなる失意に落とし込むための悪意の光だった。LED光のような不自然な光がページ内に満ち、車内の様子を克明に見せつけた。倒される助手席、折り重なる人間、不格好な動き、見たくない人体の部位。何度も何度も何度も蹂躙される夜の私。

 血が頭から指先から抜けていく。代わりに、腹に煮凝っていたものが、血管を通して体中をめぐり始めた。

「逆恨み」? は? こっちは逆でもなんでもない純粋な「恨み」なんですけど? 人を馬鹿にするのも大概にしてほしい、人を人とも思えない人でなしのくせにまだ人でいようとするなんて、なんてあさましい。今まで胴体の底に溜めていたものが外にしみ出していく。左手に握ったままだったお守りが熱を持ち、みるみる黒ずんで焦げ付いたように手のひらに張り付いた。私はその手でページからずるずるとあの男を引きずり出した。首ねっこを掴んで持ち上げ腹を素手で突き破り内臓を引きずり出し地面に叩きつけた。赤い西日に染まるタチアオイの根元が血で赤く染まった。

 

 あれ、こいつ死んでる。あっさり。悲鳴を上げさせる隙もなかった。えっ嘘、こんな簡単に死ぬのかよ。私全然恨み晴らせてないんですけど。

 いつのまにか日は沈みしのびよる闇と私の闇が溶けていくのがわかる。私もうどろどろだ。どうやら、身体全体が真っ黒になり、人の形をしていないみたい。人を呪わば穴二つ。あーあ、私も怪異になっちゃったじゃん。なのにこんなあっけなく殺しちゃって、これじゃ怪異になった甲斐がないじゃん。

 いや、あるか。

 天文薄明も終わろうとしている空を見上げ、漂い始めたかぐわしい夜気を思い切り吸い込む。南の空低くさそり座のアンタレスが尻尾を従えている。周りに漂うさまざまな怪異が私を見て目を細める。ようこそ、夜へ。どうもどうも。そういえばここら辺はいい道が多かったな。とりあえずはそこの暗渠に沿って、さて、夜の散歩を始めましょうか。

 煮凝りのような暗闇の中へ、私は元気よく這いずり始めた。

 

I always stroke my cat when I’m sad.

 ラジオ体操第二が好きだった。てんてけてーんてんてけてーんてってってってってーんててん、てんてけてーんてんてけてーんてってってってってってっ、てれれれーん!ててててててて、ててててて、ちゃらっらーん!てーててーててーんてん、てーててーててーんてん、てーててーててーんてーてててーててーててってってって、(ここからの二声が好き)てーててーててーんてん、てーててーててーんてん、てーてれんててーんてーれてーててーれれん、とろろーん!

 ラジオ体操第一が終わったあと、毎朝違う、ラジオの声だけでは再現できない謎の小ストレッチを挟んで始まるラジオ体操第二。そのキャッチ―さ、肩の力が抜けた振付を真面目にやる小学生は少なかったが、私はかなり真面目に取り組んでいた。

 昭和の終わり、夏休みなのに毎朝6時に起きて、ぺらっぺらのラジオ体操カードを首から下げて、登校班の班長さんの家の前に集まり、新しい朝が来た小学生時代。低学年の時の班長さんの家は崖の向こう側で、毎朝親不知子不知みたいな細い崖沿いの道を朝露にサンダルを濡らしながら目指す。新幹線からも見えるその崖には、「マウンテンデュー」の大きい看板があった。無駄遣いを許さない親にはねだっても絶対買ってもらえやしない、それがわかってる、炭酸飲料の鮮やかなアルファベット筆記体の文字。崖から落ちたら私はまさにマウンテンデュー、山の露になってしまう……洒落にならない酷道を、ラジオ体操のためだけに毎朝行き来するのは辛かったけれど、ラジオ体操第二を踊るのは楽しかった。

 多分そのくらいの歳から「第二」が好きで、「第一」を避けて生きる癖がついていたんだと思う。

 

「第一じゃ……なかったんだ……」

 お互い処女童貞を捧げ合った男が言う。別れ話がこじれていた。

 当たり前だ、お前程度に第一を言うかよ、という気持ちと、第二こそ私なんです、という気持ち、全部を言葉にすると尺を取りすぎて、「ごめん、第二でした」と告げる、それが精一杯の誠意だった。

 

 第一座右の銘。真名とも呼ばれる。知れば、相手を支配できるもの。

 恋愛関係に陥ればそれを教えると思っているその思考、それが男子校出身ぽくて気持ち悪かった。こっちは20歳までに死ぬほど性的暴力受けてきてんだ、そんな簡単にお前に教えるかよ、第一座右の銘をなめんなよ。

 申し訳ないけれどもう終わりなんだよ、と立ち去ると、彼が背後から、「今日できることは明日やる!」と叫ぶ。まだあきらめきれないのか。だからそれは第二座右の銘だったと言ってるだろうが。ちなみに彼が教えてくれた座右の銘は「やればできる」だった。あれ、第一だったのかな……ドン引き……

 

 それから20年後。私は母となっている。子どもももう12歳、そろそろ座右の銘が天から与えられているはずだ。でもそれを知ろうとは思わない。無理やり聞き出す親もいるらしいが、そういうのって毒親と言われがちだし、むしろ私は知りたくない。だって責任持ちたくないし。

 子どもは来年中学生。めっっっちゃへらへら生きてて楽しそう。都会育ちだからかな。私があの落ちたら死ぬ谷を越えてラジオ体操してた話をしてもげらげら笑うだけ。身体の感覚が違いすぎる。ねえ、私はあなたの都会育ちを得るために、田舎から逃げるために、あの世界に順応しつつ(内申点はほしいしね)、塾は行かせてもらえないから通信教育を親にねだってね(一か月6000円くらいだったから)、自力で東大入ったよ。そうしたら、世界は、本当に広かった。あの谷は谷ってほとでもない谷戸だったし、ここには言葉の通じる人がいっぱいいる。あなたは最初からそういう世界にいる。私は誰も信じられない世界からここまで来たんだけど、そういうの知らなくていいけど知ってほしい、子どもが男で、愛憎が入り混じりすぎているのもわかる、だけど、下駄!その下駄!へし折ろうか!!!!!

 

 と、足に触れるととても柔らかい踵。角質化してない。

 

 私に見える限りの下駄を脱がせ、子どもに聞く。

「第二座右の銘は?」

 彼は答える。

「猫かわいいね猫好き」

 私は笑う。

「それ、お母さんの第一座右の銘だよ」

花の子ども

 またやってしまった。

 枕元には胃液と、消化し損ねた繊維。

 マイスリーという睡眠薬を出されてから、私は記憶障害を起こす。薬を飲んだあと、おなかすいてきちゃったな、と思ったところまでは覚えている。そして。そして?

 私は花を食べているらしい。


 きっかけは水仙だった。春を告げる毒の植物が、正月に売られていて、きれいだったから、買った。鉢植えだ。一人暮らしの窓辺に、白い可憐な花弁が光る。そして、そして。


 翌朝、花はなかった。

 私が食べたから。


 小さい町の新任の高校教師として、約半年頑張ったつもりだった。けれども、鏡に写る私は睡眠不足と過労で、明らかに不健康だから、心療内科へ行った。そこでもらったのが睡眠薬だ。

 不眠はすぐ解消した。けれど、薬を飲んでからの奇行と記憶障害には戸惑った。昔の友達に突然電話してしまったり、スナック菓子をドカ食いしてしまったり。たくさん失敗した末、一番人に迷惑をかけない奇行にたどりついた。花を食べること。睡眠薬によって起こる異様な人恋しさと食欲を収める、もっとも平和的な方法。花を食べると落ち着くので、私は毎日花屋に寄った。


 そんな感じで、冬はまだコントロールできた。買わないと花がなかったから。

 でも今は、道を歩けば、そこら中に花が咲いている。

    激務は続き、会社帰り、現実に耐えられなくなって、睡眠薬を酒で飲み込みながら、歩く。いつもの通勤路を歩く。

 道端には咲き誇る沈丁花。肉厚の、白と赤のツートンカラーにかぶりつく。口の中が、トイレの芳香剤みたい。でも、食いではある。しゃりしゃりと、セルロースをかみ砕く。

 ラナンキュラス。これも、花弁が多くて、大きくて、食いでがある。鮮やかな赤をまるごと飲み込む。ぱくり。農薬みたいな匂い、これはこれでよし。

 道端に咲くハコベ、そしてオオイヌノフグリ。きらきらした星を根っこごと引き抜いて、口に詰め込む。土がじゃりじゃりする、けれど輝く星に、明日への粒を感じる。

 咲き遅れた山茶花。まっピンク。蜜の味しかしない一口目から、青い香りがする端の花弁までの、グラデーションがたまらない。

 こぶしとモクレン。大樹のしたについた花を背伸びして噛みつく。ぱっと見似ているこの二つ、食べると全然違う。まるで、シジミと牡蠣みたい。

 チューリップ。大事にされて花壇にいるから、ちょっと躊躇する。でも食欲には勝てない。茎の先を無慈悲に摘んで、ゆっくり味わう。若鶏みたい。とてもジューシー。

 アネモネ、これは、食ってみろ、飛ぶぞ。口の周りが黒くなってる気配を感じるけど、そのまま、ぬぐいもせず、歩き続ける。

 ハナニラ。可憐な花とうっすら香るニラ臭のギャップが良い。ニラやニンニクを食べたあと、決してキスしてくれなかった元カレを思い出して、むかついて、つい食べ過ぎてしまう。

 毎晩、こんな感じのフルコースを食べていたら、春本番がやってきた。ソメイヨシノの季節だ。全部の風が、食べ物。口を開けると、散る花弁が、風とともに飛び込んでくる。下を向けば、ヒヨドリメジロが落とした活きのいい花。味は薄いが、上品とも言える。いくらでも吸い込める。これはアムリタだ。不死の酒。空気の流れのかたちをした、薄桃色の流れが、あちらへこちらへ、命を吹き込んでいて、全部、私は、身の肉にするために、口に入れる。地べたに跪き、積もった花弁も集めて貪る。

 

 民家に咲く花を思うだけからだに流しいれる夜が明け、そのたび私は後悔する。花盗人より、花食人のほうがよほど罪が大きいのではなかろうか。

 薬と、酒と、花しか口にしていないのに、しかも毒花も食べているのに、私は健康だ。透き通った桜貝のような爪。モクレンのように白い皮膚。唇にはラナンキュラスの赤がこぼれる。ある朝、花が私からはみ出す。

 ふわあ、ちょっと油断しちゃった、死ぬわああ。

 校舎の屋上に出て、からだのおもうがままにする。からだが裂けて、咲く。コアから吹き出す粉が、春の嵐にのって運ばれていく。私は風媒花としての一生を終える。


 校舎の風下に住む近隣住人たちが、数か月後、健康障害を訴える。鼻の奥、副鼻腔に何かいるみたい。疲れると目の下が張る。

 まもなく、鼻腔から、突然、鼻水より生命の匂いがする液が吹き出す。羊水。降りてくる、とてつもなくおおきな塊。もう痛すぎて何も覚えていないけれど、ゆっくりと旋回する小玉スイカみたいなやつ。鼻からスイカ。町唯一の産院の助産師さんが、がんばって、我慢して、もう少しですよ、といっている、はい、いきんで、鼻からもう頭出てますよ、よーし鼻毛切りましょうか、おぎゃあ、ぎぇぇぇぇぇぇ、あらマンドラゴラみたい、とりあえず鉢に入れときましょうね。カンガルーケアはいい?はい。お疲れでしょうし点滴しましょうか。え?これから仕事行く?やめて、産後のケアはその後の一生にかかわるからせめて今晩は泊まっていっていください、粉ミルクの作り方もあとで講習やりますんで。ね?かわいいでしょあなたの鼻から生まれた子ども。

 こんな患者が日に数人。修羅場は3週間程度続いた。


 大量に生まれた花の鼻の子どもたちは、鉢から庭に移植された。鼻からスイカ並みの苦痛を味わった親たちから意外と愛情をかけられ、彼らはすくすく伸びている。

 季節ごとの花を食べ、夏にはカンナ色の花火を打ち上げてくれる、いい花になった。

 もうすぐ春。花の子どもたちにとって初めての春。風から伝わるなつかしさだけを頼りに、彼らはその身からソメイヨシノを散らせ、そして、死ぬだろう。

 

(古賀コン4参加作品です。お題は「記憶にございません」、2024年3月3日23時〜24時の間に記憶障害を起こす睡眠薬を飲んでから書きました。)

 

金色の不同意(千字戦参加作品)

 彼の音は、いつも開いていた。トランペットのファーストらしい華やかな音ではあったが、まるで浅いマウスピースを使っているようなぺらりとした音。彼が出した音だとすぐわかる。金色のBACHを使っていた。さらりさらりと高音を吹き流すが、どうしてもきらきら以上のぱらぱらが広がっているような、そんな音を出す、部活の先輩。彼の音が、どうしても好きになれなかった。私は唇が厚くて高音が出せなかったため、彼の下支えをすることが多かったが、私の音は、自分なりに、凪いだ川の水面を渡るようなまっすぐな音を心がけていた。当然、彼の音との相性は悪かった。音と同じように、それほど仲良くもなれなかった。

 高校を卒業して8年ぶりに、トランペットパートの同窓会に呼ばれた。彼もいて、銀行員になっていた。高校のときより垢ぬけた私を、彼が見る目。あの目、知ってる。性的な目だ。

 結構飲みすぎてしまった帰り道、ふらつく私を支える彼の手。案の定、誘われた。

「やる?」

「やらない」

 彼の手が開く。瞬間、彼の頭が、トランペットの開いたベルに見える。金ぴかの、彼の音のようなぱっくりと開いた頭。ああ、開いてるなあ。

 私も手を開き、彼の開いた手にハイタッチをする。

「ちゃんと聞いてえらいね」

「性的同意、くらい知ってるし」

 不服そうな顔をする彼に、私は笑って、彼も笑って、まっすぐ駅に向かう。

 開いて、結んだ手で、もう一度げんこつハイタッチをした。またね。

梅からの伝言(千字戦参加作品)

 その枝は、どちらに伸びるか決めかねていた。狭い庭に植えられた梅の木である。まだ若木で、その枝がどこを目指すかによって、木全体の大勢が変わってしまう、そんな時期であった。

 あちらに行ったら塀があるが、でも日当たりはいい。そのころの枝にとって、塀はまだまだ遠かった。すでにひび割れて梅らしくなってきた幹から、その枝は南向きの塀に向かってじわじわと歩を進めた。土があっていたのか、梅はすくすくと育っていった。その枝も、日の光の力を借りて、自分が思っていた以上の速度で距離を伸ばしていって、知らないうちに塀にぶつかってしまった。

「へい、塀さん!しつれいしますよ」

 ブロック塀は鷹揚にうなずき、枝に道を空けた。ブロック塀の向こうは畑で、とりあえず切られる心配もなさそうだった。毎年毎年、枝は伸びた。伸びに伸びた。まっすぐ伸びた?いや、まっすぐは無理だった。だって梅だもの。しかも、とんでもないことに、その枝は重度の方向音痴だった。そして優柔不断。あっちに行こうかな、いやこっちが正しい道では?悩みすぎる気もある枝は、曲がりくねり、あたり一帯を埋め尽くした。

 ざわざわ。いまや大木となった梅の葉がそよぐ。ひときわ太くくねくねした枝が、まるで迷路のようにかけのぼりかけおり、それはそれは美しい眺めとなった。その家の人は喜んだ。塀と同じように、鷹揚なタイプだった。

 春の光。芽吹く前に咲く香り立つ花。梅雨の雨。ふくらむ実たちがまるまるとしたちょうどそのころ、人間は枝を物干しざおでたたいて、実を落とす。枝は暴虐に文句も言わず、素直に実を落とした。

 その実で作った梅酒が、この梅酒です。

 そう言って、彼女はガラス瓶をどんとテーブルに置く。友達だけの、気の置けないホームパーティーに、手土産として持ってこられた梅酒を見て歓声を上げた人々は、謎めいた話にもいつものあの子らしいね、と、笑って、梅酒をたらふく飲んだ。

 そのパーティーの帰り道は、なぜだか曲がりくねっていて、誰もが駅までたどり着けなかった。迷いすぎて、結局みんなが梅の木になってしまった。その道が、この梅並木ってわけ。