ただの石のせいで死ぬ

 カーテンの隙間がどうしても空いてしまう、少し。
 カーニバルの船が鐘太鼓を鳴らし通り過ぎる、ゆっくり。
 川沿いのこの部屋に引っ越してきて、初めて迎える祭りの日。窓の下を流れる濁った水の上を、細い船体が、ナメクジのように進んでいく。その様を一緒に見たかった、ほんの少し前までは。嘘のような話だ。だって、一緒に見たかったその人は、隣の部屋で死んでいる。彼は生きているつもりかもしれないけれど、私の中では、完全に死んでいる。
 出会い、語り合い、肉体的に接触する、ともに暮らす。とても順調に進んでいるはずだった交際である。けれど、違ったようだ。人は人と関わることで死ぬ。今、隣の部屋で蠢いて、不機嫌そうに鼻を鳴らしているのは、彼ではなく、彼のなれの果てである。私は今、彼を殺したい。
 きっかけは、なんだったのだろう。もう思い出せないけれど、私の人格を否定されたことは強く覚えている。人格を否定しないでほしい、と言うと、君が先に僕の人格を否定したのだ、と言う。人権がほしい、と言うと、君が先に僕の人権をないがしろにしたのだ、と言う。すべてが私のせいであるようだった。すべてが私のせいだなんて、こんなに悲しいことがほかにあるだろうか。彼の人格を否定して、人権をないがしろにして、彼を悲しませてしまったのは、私だったのだ。その報いとして、私は、人格を否定され、人権をないがしろにされ、そして。そして、死のうとしている。
 その前に、彼を殺さねばならない。だって、私だって人格を否定され、人権をないがしろにされ、とても悲しいんだもの。その責任は、とってもらいたい。
 窓と反対側の壁にある祭壇に、祈る。彼が死にますように。彼が死にますように。
 薄く開いたカーテンの隙間から、ちりん、どん、たくたく、という音が聞こえ続ける。はてしない船の行列が朝から続いている。
 私は祈り続ける。彼が死にますように。彼が死にますように。
 ひときわ大きな音を立てて、他よりも華美な船が通り過ぎる。ちろん、ちりん、ちちち、たくたく、どん。
 隣の部屋からは何も聞こえない。重く大きな肉体が倒れる音も、それが超自然的な力に引きずられて窓を乗り越える音もしない。茶色がかった緑の濁った水に、彼の体が吸い込まれるとよい。派手な水しぶきをあげて、窓から落ちるその骸。沈んでいく。波を立てながら沈んでいく。そうなればよい。
 
 もちろんすべて、私の願望に過ぎない。私にできるのは、私の体を川の水に落とすことだけだ。
 祭壇のろうそくを手で払って消した。私は私を終わりにしなくてはならない。さようなら。窓から身を乗り出すと、船に乗る人々が一斉にこちらを向いた。どんどん、たくたく。ちりん。黒い穴の開いた彼らの顔が、微笑んでいるように見える。今がそのときだ。私の時が来た。
 私は窓の外に重心を移してゆく。少しずつ、少しずつ。恐怖があふれて口からこぼれ出しそうになる。ひるんでまた部屋に戻ろうとする私を、川へひきずり戻したのは、凄まじい音量の鐘太鼓。心がしびれていく。再び窓から乗り出した身に、つんと汚泥の臭いが刺す。
 私はあの人と関わったことで本当に死ぬ。しかしそれは私のせいになるのだろう。それでいい。船の人が、何かを私に渡す。両手を伸ばして受け取ったそれは、彼の体のようにとてもとても重い石。両手で捧げ持ったそれを絶対離さないように、前にのめる。
 どっぷん。
 石と手がくっついて離れない。これが私への罰。なぜ受けるのか、いまだに承服しかねている罰。
 こうして私は、川に沈む石となりました。カーテンの隙間からいつも覗いているのは、私です。